ナイチンゲールのもうひとつの顔



 今までは、主にナイチンゲールの功績をお話してきました。ここではナイチンゲールの功績とは違う彼女の苦悩をお話したいと思います。数多くの功績を残し、世界の人々のために生涯を捧げたような魅力的な女性が、どうして沢山の苦悩を背負わなければならなかったのでしょうか。

 ナイチンゲール家の人々は家族をとても大切にしていました。両親は、彼女をとても可愛がりました。しかし、その愛情表現が彼女を一生悩ます種になったともいえます。とても美人で活発で虚栄心のかたまりのような彼女の母親は、政治家になり贅沢な地方貴族の生活を送る妻を夢見ていたのですが、政界入りの失敗からその情熱が失せてしまった夫に見切りをつけ、その後は彼女と彼女の1歳年上の姉のパースィノープのふたりに、その夢を託そうとしました。彼女の母親は娘たちに教養を身につけさせ、社交界にデビューさせ、立派なレイディになり、ゆくゆくは良家の青年と結婚させたいという思いをはせていました。

 ナイチンゲール家はとても裕福でした。しかし、彼女はすでに6歳のときには、その裕福な生活に不安や罪悪感を抱いていました。そして、『白日夢癖』・『食卓恐怖症』が出現します。白日夢とは、簡単に言うと空想のことで、現実に満たすことができない欲求を、空想で満たすことでストレスを解消しようとする現われのことです。また、食卓恐怖症とは対人恐怖症の一種で、人前に出ると意識してしまい緊張感が増して対人関係を避けようという行動が出てきます。彼女は、他の人たちと同じように振舞えないのではないかと不安を抱き、食事のときもナイフやフォークで何か過ちを起こすのではないかと思い込み、皆といっしょに食事をとることを拒否していました。これらの症状は神経症の類で、神経症はまだ自分自身で症状を自覚して病識がある状態のことです。彼女は、晩年自分を振り返ったときに、「幼い頃、自分は他の人と違うのではないか、と強迫観念に捕われていた」と語っています。彼女は夢の中へ夢の中へと逃げていってしまったのでしょうね。

 もともと学者肌だった父親は、政界入りに失敗してからは、次第に屋敷の書斎に引きこもるようになってしまいました。そして、娘たちに学問の教養を身につけさせようとして、自らが教育に乗り出しました。一方、立派なレイディに娘たちを仕立て上げたかった母親とは、子どもの教育方針の違いによるいさかいがたびたび繰り返されていました。こうしてナイチンゲールは、両親の教育方針への違いはあるにしても、女性としての教養を身につけるとともに多くの高度な知識を得たのでした。ですが、彼女はレイディに近づけば近づくほど、恵まれた生活の中では幸福感を得られませんでした。そして、彼女が白昼夢の中を彷徨う時間も長くなるのでした。

 退屈な生活の中でも、ナイチンゲール家の領地内の貧しい人々を訪問し看病にあたるときには、彼女の気持ちは満たされるのでした。そして、このときばかりは、空想の世界から解き放たれるのでした。いつしか彼女は、『自分はどう生きていけばよいのか』と神に語りかけるようになりました。それは、もしかしたら白昼夢の中の彼女自身に問いかけていたのかもしれません。そして、彼女は神の声を聴くのです。しかし、神の声は具体的に何をしろとは指示しませんでした。彼女は、具体的に何をしたらよいかという答えを見つけるまでにかなりの時間がかかりました。そして、貧しい人々のために看護の仕事をしたいと決意します。彼女が、看護婦になりたいと家族に告げてから、実際に看護活動を始めるまでには、14年の月日がかかります。その14年の間、ナイチンゲール家の人々のそれぞれの思惑と戦わなければならなかったのです。彼女は、こうした葛藤と自責の念に捕われ病臥がちになります。

 ナイチンゲールが家族に看護婦になりたいと告白した後、当然家族の大反対に見舞われました。母親は過剰な家事を押し付けて彼女の自由な時間を奪いました。また、彼女の美貌や才能をねたむ姉は彼女を独占しようとして、常に自分のためにそばにいることを強要しました。そして母親と姉のふたりは、彼女をののしり、彼女の反抗的な態度にヒステリーを起こし、ときに失神発作を起こすのでした。父親は、当然彼女が看護婦になるために今まで高い教育を受けさせたわけではないと怒りますが、妻や姉娘のヒステリーにはさすがに耐えられず、ひとり逃げてしまいます。そんな家族の仕打ちを受けることで、彼女は鬱状態に陥ってしまいます。そんな病臥がちな彼女を救ったのは、周りの人たちでした。彼女を旅行に連れ出し、家族から引き放すことに成功します。彼女は、この転地療養的な旅に出ているときには、一時的に元気を取り戻します。しかし、再び家族のもとへ戻り1時間もすると、また鬱の生活へと引き戻されてしまうのでした。

 ナイチンゲールは鬱状態の生活の中でも、看護婦になることはあきらめてはいませんでした。ただ無為に時間を過ごしていたわけではなく、病院や看護に関するありとあらゆる資料収集に時間を費やし、看護婦になることに思いを募らせていました。母親と姉は彼女といることで、かえってヒステリーを起こすと医師より指摘されてはいましたが、なかなか彼女を手放そうとはしませんでした。また、彼女自身も錯乱状態に陥ったり失神発作を起こし倒れたりもしていました。彼女のおばや友人たちの強い説得により、ナイチンゲール家ではついに彼女を手放さないわけにはいかなくなりました。こうして周りの協力者のお陰で、彼女は家族も贅沢な暮らしも捨ててひとりナイチンゲール家を出ることになります。家族と別れてひとり立ちするということは、彼女にとっては白昼夢との別れともなったのです。