| 米Web | 三川村 |
三川村は新潟県北東部の東蒲原郡西端に位置し、(地図参照)周囲を900〜1000メートル級 の山々に囲まれ、集落や耕地は阿賀野川とその支流の河岸段丘などのわずかな平地に形成されています。 土地の総面積は249.87で97%を山林、原野が占め、耕地は2%となっています。夏の日照 時間は長く、気温の日較差も多いのが特徴で、昭和46年には特別豪雪地域の指定を受けています。村 の人口は4,396人ですが、内65歳以上の人は村民の33%を占めます(世田谷区16.1%)過疎 化が進んだとはいえ85歳以上の人が130人もおり、高齢者も元気に暮らす長寿の村とも言えるのでは ないでしょうか。
手つかずの豊富な自然環境。これが三川村の誇るべき最大の特徴です。その象徴ともいえるのが 悠久の時を刻んで育まれた巨木の数々でしょう。平成11、12年度に実施された巨樹、巨木フォロー アップ調査において杉の部で左写真の「将軍杉」は日本一となりました。その名はこの地で晩年を過ご した平安時代の将軍、平維茂にちなんで付けられたもので、近くには国の重要文化財「薬師堂」があり ます。将軍杉には次のような伝説があります。
「集落の人々は阿賀の水運によって生計を立て、船頭も多かった。あるとき、新しい船ができたが適当な
帆柱がないので将軍杉を切ることに決定した。翌朝、伐採しようと行ってみると、杉は一晩のうちに枝下
の部分まで地下へ沈んでしまっていた。村人たちは自らの姿勢を恥じ、以後、厚く保護に努めた」とい
うものです。
この伝説が示唆するように樹齢1400年、幹周1931a、樹高38bに及ぶ、この 巨大な杉の木は、見るものを圧倒することで生き物の健全な生息には健全な環境がなにより大切なのだと 我々に強く訴えかけているようにも思えます。
うっそうとした杉木立の中にたたずむ平等寺薬師堂は武勇で知られ、武士の鏡と崇められた平維茂が、 平安時代末、阿賀野川で発見した薬師如来像を安置するため建立したと伝えられています。境内には維 茂の墓もあることから、当時ここは薬師の霊場として、たとえ戦であっても敵味方ともに手出しのでき ない聖域でした。だから追っ手を逃れた会津の将兵達はお堂に立てこもり、しばしの安息を求めたので す。
堂内の壁板の所々には、戦国から江戸時代にわたる参詣者の落書があります。中でも興味深いのは
、天正六(1578)年に上杉謙信が急死して起こった後継者争い「御館の乱」についての落書きです。
これは越後を二つに分ける動乱につけ込んだ隣国、会津の将兵たちが戦いに敗れ、帰国の途中に書いた
もので、当時の会津と越後の緊迫した動静を生々しく伝えています。
手つかずの自然に恵まれている三川村は水がおいしい場所です。右の写真は県内の名水百選にも選ばれているおいしい湧き水です。 四季を通じて水温は12℃。国道49 号線という場所がらもあって汲みに訪れるドライバーが絶えません。
三川村の基幹作物はイネであり、収穫された米は非常に食味評価が高く、三川村役場が発行する三川村 勢要覧でも「日本一うまいと自負する良質米」と紹介しています。私も初めてコシヒカリを食べたとき はその食味の良さに驚きました。「炊きあがりに見事な光沢がある」「口にしたときの粘り感が良い」 というのが特筆すべき特徴ですが、何故うまいのか?これにはそれなりの根拠があります。
前述した
通り三川村はイネの登熟期にあたる夏場の日照時間が長く気温の日較差の多い場所です。このような環
境下では光合成量は多くなり、逆に夜間の呼吸量が少なくなります。よって光合成による産物であり、
エネルギーの源である炭水化物は呼吸による消耗が少ないためその分果実への流入が良好となりみのり
の良い果実、すなわち美味なる米粒を生み出すというわけです。
詳しく話せばさらに品種、気温とデンプンの
成分、産地に棲む生物群、土壌がさらに関係していますが、作物というのはこのように自然環境の影響を
受けて産出されるものなのです。
これが工業製品と作物の決定的な違いで、農業では土地や気象条件そ
のものが既に生産物の原料となっているのです。従って気象条件が異なれば工業製品のように均一な性質
を持った産物を作ることは不可能となります。このことは当たり前のようなことながら意外に盲点とな
りやすい事実なのではないでしょうか。そしてこういった事実に基づけば三川村という場所はイネとい
う作物にとってかけがえのない原料として今後もかわらず維持されるべきである事が見えてきます。